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花園の鉄道高架、50年のアニバーサリー

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小樽市街中心の繁華街、
花園の頭上に架かる函館本線の高架橋は、
地元に住む人にとっては、
ごく当たり前の存在。
この高架橋が完成したのは
昭和39(1964)年9月27日のことです。
明日がちょうど50年の記念日となります。
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橋は50年を経て、だいぶ年季が入った感じ。

今でこそ、市街中心部の頭上を
電車が走り抜けるのは日常的な光景ですが、
高架完成以前、花園には
2つの大きな踏切がありました。
現在の「花銀通り」(昔は第一大通りと呼んだ)
「国道5号」(第二大通り)の2箇所です。

そもそもなぜ、こんな市街地を
分断する形で踏切ができたのか……。
小樽では明治13年11月、
手宮から札幌方面への路線が、
北海道初の鉄道として開通しました。
それより四半世紀遅れて、
函館方面から小樽に至る
〈北海道鉄道〉が完成します。
函館〜小樽の全通は明治37年10月でした。

この時点で2つの鉄道は、
接続していません。北海道鉄道の
終点となった駅(現在の小樽駅)
地形の関係で山の手寄りに置かれ、
手宮を起点とする既存の路線とは直接、
繋げることができなかったためです。
しかしそれでは不便ということで
明治38年8月、2つの鉄道を接続するため、
すでに市街地として発達していた街並みに
割り込む形で、「連絡線」が敷かれます。
これがつまり、今、多くの人が利用している
小樽〜南小樽間のJR線路なのです。

この連絡線が敷かれた明治時代、
大通りを横切る踏切の存在は
大した問題ではなかったと思われます。
しかし昭和30年代に入って自動車の通行量が急増すると、
街なかの「開かずの踏切」は
大きな社会問題にもなりました。
その打開策として高架化が実現したのが、
ちょうど50年前だったというわけです。

高架下に飲食店などが並ぶのも、
今ではお馴染みの光景です。
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この高架下のスペースに商業施設が開業したのは、
高架完成の翌年、昭和40年の末。
当初、国鉄ではこの施設内を
仕切りのない大きな空間とし、
デパートのような高級志向の店舗を入れることを
目指していたようです。
小規模な飲食店は断固認めないという姿勢でした。
しかし営業的に苦戦してテナントの入れ替わりも多く、
ようやく方針転換して飲食店の開業を認めたのは昭和47年。
それ以後、現在のような飲食店街ができたというわけです。

今の高架下は、すっかり「夜の街」に。
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今年が50年記念であることに、
気付いている人は……あまりいないだろうな〜。
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あ、ちなみに朝8時の旭川行き“赤電車”は、
もうなくなってしまいました。
上の写真は7月中の撮影です。







by wilderness-otaru | 2014-09-26 13:00 | できごと | Comments(0)
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