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「住ノ江の薄い家」についてのまとめ【2】

通称(!?)「住ノ江の薄い家」こと
旧石橋家別邸洋館(以下「洋館」)に関する
調べ書きの続きです。

前回は、建物の成り立ちについて
推測を交えながら書きましたが、
今回は、屋敷の建て主である
石橋家について。


●当主・石橋彦三郎と、〈北の誉〉創業者・野口吉次郎
〈丸ヨ石橋商店〉当主の彦三郎は彦根出身の商人。
大阪の米穀商に奉公し、若くして商才を発揮しました。
明治11年、22歳で小樽に来て呉服・荒物を商い、
のちには海産物卸、鰊漁場経営も手掛けたようですが、
事業の中心は呉服商でした。

明治30年頃になって醤油の醸造という
新しい事業を考えていたところに出会ったのが、
野口吉次郎。出身地の加賀で
醤油や酒の醸造を手掛けるも成功はせず、
働き口を求めて小樽に来たという苦労人です。

石橋のもとで醤油造りを手掛け、製造が軌道に乗ると、
石橋家は国内でも屈指の醤油業者となります。
このほか旭川の雨粉(うぷん)では
〈丸ヨ農場〉を開いて米作を手掛け、
上川地方における水稲栽培の
礎を築いたという功績も伝えられています。

やがて野口は石橋の元から独立。
同じ醤油を造って奉公元と競合するのを避けるため、
酒造りを始めます。
これがうまくいって、生まれたのが〈北の誉〉。
野口吉次郎は北の誉の創業者なのです。
以上はおもに『小樽商工会議所百年史(1996)』を参考にしました。
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▲大正12年発行の市街地図。
住ノ江に浄暁寺と、丸ヨ石橋邸が記されています。
ただし書き込まれた場所は誤りで、実際にはどちらも1本下のブロックに位置します。

住ノ江からほど近い奥沢地区、
勝納川の流域には、ともに丸ヨの印を掲げた
野口と石橋の工場が記されています。
石橋には第一、第二、2つの工場があり、
製造規模が大きかったことを伺わせます。


●石橋彦三郎、石橋商店の晩年は?
醤油醸造で成功した石橋彦三郎ですが、
明治時代の終わり頃には故郷彦根に帰っているようです。
63歳になった大正6年、第12代の彦根町長に就任。
実業界出身の町長は、彦根で初めてだったそう。
また彦根高等商業学校(滋賀大学の前身)
誘致するため、多額の寄付をしたとのことです。

彦根には明治年間に建てられた石橋家住宅の建物群が現在も残り、
国の登録有形文化財となっています。

ということは、彦三郎は北海道で事業を行いながらも、
故郷との繋がりを保っていたということなのだろうか……。

住ノ江の屋敷は大正初期までに
建てられたとみられますが、彦三郎は
そこに住んでいないようです。
土地取得時の名義は、彦三郎の婿養子だったらしい。

近年まで盛業を続けた北の誉に対し、
石橋商店はより早くに事業を終えているようですが、
その来歴を伝える資料は見当たりません。

昭和35年に発行された小樽市港湾部製作の市街地図には、
勝納川沿いに「石橋醤油醸造工場」が記載されています。
ちょうど北の誉の工場(最近まで「酒泉館」があったあたり)の、
川を隔てて向かいのところです。

戦後にも操業していたようですが、
いつまで続いたのかはわかりません。
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▲昭和35年の地図。
この図は海側が上で、前掲の大正12年の図とは
反対向きであることに注意。

1994年に発刊された
『小樽市の歴史的建造物 歴史的建造物の実態調査報告(1992)からは、
小樽の建築に関して信頼度の高い書物ですが、
この本を見ると、かつて「酒泉館」周辺に多数あった
北の誉の製造関係の建物はいずれも、
元は石橋商店醤油工場として明治後期から大正にかけて、
建てられたものであったと記されています。
どの時代に北の誉の工場になったのかはわかりませんが、
両社は長年にわたって緊密な関係を
続けていたのかもしれません。

ともあれ、石橋商店の晩年について、いずれ調べてみたいと思います。

記事が長くなりましたが、
次回はようやく、洋館の中へ……。







by wilderness-otaru | 2017-12-28 09:44 | 小樽散歩 | Comments(0)
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