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日本郵船の館内へ

北海道の観光施設などでは11月上旬の週末をもって
営業を終わるところが多くあります。
あとは4月下旬の連休まで“冬眠”となるので、
旅行関係の雑誌編集では、しまった!撮っておけばよかった!!
ということがけっこうあるのですね。

それとは別ですが、小樽では
重要文化財になっている旧日本郵船小樽支店が、
この11月4日から修復工事のため、長期休館となります。
再開は2022年3月という大掛かりな作業らしい。

何度も訪れているので、特に必要性はないのだけれど、
今後の約3年半は入れないということで、
一応、見納めに行っておきました。
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外観は荘厳・重厚な建築ですが、
内装の細かいところも見ものです。

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あとで気付けば、圧倒的にタテ位置の写真が多かった。
なんで!?
今回はいっそ、全部タテの画像だけを載せました。


それにしても修理工事に3年半近くとは長い。

この郵船では近年にも、2013年9月に「調査工事」が始まり、
当初の予定を1年延長して2015年3月まで休館していました。
今回始まる修理工事は、その調査を受けてのものだそうですが、
調査から着工まで3年以上も経って、
その間にも現況が変わってしまうのではないかと、
余計な心配をしてしまいます。

たまたま、今日の新聞は日本ハムファイターズの
新球場(ボールパーク)建設の計画を伝えていました。
それによれば2020年5月着工、
23年3月開業の予定とのこと。
工事期間は3年足らず。
郵船の修理工事はそれより長いんだな。

役所の仕事ってすごいな〜と、
あらためて感じ入りました。


皮肉かって?
当たり前でしょ(^-^*)








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by wilderness-otaru | 2018-11-05 13:26 | 小樽散歩 | Comments(0)

『小樽の鉄道遺産』が北海道遺産に

2018.11.2の北海道新聞朝刊を開いて、
へえ〜っと思ったのは『北海道遺産』に
15の物件が追加されたというニュースでした。
小樽関連では『小樽の鉄道遺産』が入ったとのこと。

私は昨年、北海道新聞社から発刊された書籍、
『「北海道遺産」読本』を執筆させていただきました。

といってもあくまでも本を書いただけで、
北海道遺産の運営などには関わっていないので、
その後の追加認定の動向なども知りませんでした。

これまでにあった小樽の北海道遺産は
『小樽みなとと防波堤』1件です。
確かに小樽港の防波堤は歴史的にも
土木工学の視点からも貴重で、
北海道遺産に選ばれるに相応しいものです。

でも小樽といえば運河とか建築物とか、
より一般にわかりやすい史蹟も多く、
それらが北海道遺産に入ってもいいのではないか、
という気はしていました。
その観点からすると今回の“鉄道”は、
まず順当な選定ではないかと思います。

この『小樽の鉄道遺産』に関連する見どころといえば
市街地を通る旧手宮線の線路跡と、
今は小樽市総合博物館となっている
手宮の鉄道史蹟でしょう。

たまたまですが、この日は
博物館に行く用事がありました。
ちょうどアイアンホース号が出発待ちだったので、
踏切から1カット。
背景、手宮公園の紅葉はまだ見られる感じです。
天気が良かったのでいい色になりました。
アイアンホースの今シーズンの運行は、あとわずか。
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ちなみに今回、北海道遺産に選ばれた15件は
以下のとおりです。

 ・利尻島の漁業遺産群と生活文化
 ・旭川家具
 ・三浦綾子記念文学館と外国樹種見本林
 ・増毛山道と濃昼(ごきびる)山道
 ・北海道の集治監(樺戸、空知、釧路、網走、十勝)
 ・小樽の鉄道遺産
 ・大友亀太郎の事績と大友堀遺構
 ・パシフィック・ミュージック・フェスティバル(PMF)
 ・札幌軟石
 ・蝦夷三官寺(有珠善光寺、様似等澍院、厚岸国泰寺)
 ・しかべ間歇泉
 ・むかわ町穂別の古生物化石群
 ・北海道の簡易軌道
 ・千島桜
 ・松浦武四郎による蝦夷地踏査の足跡

むかわ、武四郎あたりはタイミング的に
“いかにも”という感じですが、
“それがあったか!!”というものも……。

ま、いろいろあって楽しいです。

また本を書きたいなあ……。









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by wilderness-otaru | 2018-11-03 13:07 | できごと | Comments(0)

道南の旅【3】“古都”松前

函館から松前町にやってきました。
江戸時代には蝦夷ヶ島に
ただひとつ置かれた“藩”である
松前藩の城下町だったところ。
そうした歴史をもつだけに
“古都”の風情が漂う、
北海道では希有な場所でもあります。

何と言ってもお城がある。
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松前城です。またの名を福山城といい、
町でいちばんの見どころとなっています。
もっとも城は藩の拠点ではなく、
幕末になって外国からの脅威に備え、
幕府の命によって建てられたものです。
落成は安政元(1854)年。

大砲や銃器が主力の時代、
さあ狙ってくれといわんばかりに
戦国時代さながらの天守を建ててしまうあたり、
時代錯誤も甚だしい。
古典的な「城」の発想から抜けられなかった、
ということなんだろう。

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実用的な機能はさておいても、
シャチホコの載った白亜の天守は美しい。
もちろん北海道内では唯一のものです。

ただし城は昭和24年に火災で焼失し、
現在あるのは35年に再建されたコンクリート建築です。
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城は戊辰戦争の戦場にもなりました。
土方歳三率いる旧幕府軍が攻撃し、
短時間のうちに城を奪取します。
そのときの砲撃の跡が石垣に残っています。

城の背後、山側には“寺町”があります。
現在残る寺は松前藩の菩提寺である
「法幢寺」を含む5つ。
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暑い日だったけれど、蝉時雨がひびき
さわやかでした。
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松前藩の墓所。
藩主や側室の墓が並んでいます。
傍らには竹林もあったし、
どこを見ても“北海道らしくない”風情がたっぷりです。

ところで歴史上、松前藩といえば
アイヌからの搾取によって
藩の経営を成り立たせていたことが
語られます。

司馬遼太郎の大作『菜の花の沖』では
高田屋嘉兵衛が初めて蝦夷島に渡るくだりで、
松前藩をめぐる状況が詳しく描かれます。

あらためてその部分を読み返しました。
少し長いが引用すると……

「松前」という藩は、歴史の上でどれほどの名誉を背負っているのだろうか。
巨細にみても、広大な採集の宝庫の一角を占めた悪組織というというほかなかった。
この藩は、みずからの藩や藩人個々の利益になること以外に、どういう思想ももっていなかったように思える。
「場所請負制」という利益吸いあげの装置の上に、藩も藩人も寝そべっていた。

……との記述は実に痛快です。

松前藩はこうした藩経営の実情が
外部に知られることを極端に嫌い、
入国者にも厳しい取り調べを課しました。
小説では高田屋嘉兵衛が、沖の口の役所で
理不尽な取り調べに合う様子も仔細に描かれています。

このほか司馬さんの著作では、
『街道をゆく』シリーズの15巻、
『北海道の諸道』でも江差や松前が取り上げられていて、
旅での見聞に重ねると、おもしろく読めました。
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松前の前浜。
嘉兵衛の操る北前船「辰悦丸」も
このあたりに停まったのだろうか、と想像がふくらみました。
防波堤のように見えるのは、明治に入って造られた波止場で、
解体された松前城の石垣が利用されているのだそう。
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興味深い見どころがぎっしりの、松前でした。








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by wilderness-otaru | 2018-08-28 01:01 | 北海道の各地 | Comments(0)

道南の旅【1】函館山、砲台跡を見る

8月10日、江差・姥神大神宮の例大祭を見たあと
道南地方でいくつか、訪ねたい場所がありました。
その筆頭が函館山。
山頂から見る夜景が何といっても有名で、
それを見に行ったこともありますが、
今回の目的は「史跡」です。

津軽海峡を睥睨する函館山の山頂部には
戦時中、軍事要塞が築かれ、
その遺構を今も見ることができます。

要塞の建造は明治後期、日露戦争の時代に始まり、
第二次世界大戦まで使われました。
そのため函館山の存在自体が軍事機密として、
立ち入りはもちろん、写真やスケッチも
厳禁されていたのだそう。

事前に下調べしたところ、
山頂部には広範囲にわたって要塞跡が点在し、
それらを巡る山道も、
いくつかあることがわかりました。
そのなかで選んだのは千畳敷コースです。

スタートは立待岬。
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津軽海峡に向かって突き出た岬は
景勝地としてポピュラーで、
多くの観光客で賑わっていました。
ここから車道を少し戻ったところが
登山道の始まりです。
「七曲り」と呼ばれるつづら折りの道を、
登ること約1時間。
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おなじみの、函館山の景観です。
ちょっとガスってました。
左端、テレビアンテナが建つあたりが
ロープウェイ駅のある山頂展望台。

千畳敷の広場に出て、さらにそこから
ひと登りすると要塞跡に到着します。
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ここにあったのは山頂部一帯にある、
さまざまな施設の核となる「司令所」だったそう。
いろいろな形をした建築物のそれぞれが、
どのような目的だったのか正確にはわからないけれど、
当時の優秀な頭脳の持ち主が、設計したのだろう。
山の上にレンガをはじめ多量の資材を運ぶ
築造工事も過酷だったことは、容易に想像できます。

この砲台は外国軍艦に対する“抑止力”はあっても、
実際にここから砲撃が行われたことはなかったらしい。
戦争の虚しさ、愚かさといったものを感じます。











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by wilderness-otaru | 2018-08-24 01:17 | 北海道の各地 | Comments(0)

「住ノ江の薄い家」についてのまとめ【3】

住ノ江・旧石橋家別邸洋館に関し、
前回までかなり長い記事を書いてきましたが、
今度は洋館内部の様子を、
写真とともに記します。

洋館への出入りは、建物裏手(海側)の園庭側から。
山側、市道に面した入り口は現在、
使われていません。

なお内部は現在、物置のようで、
けっこう散らかっています。
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▲2階へ上がる階段。

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▲右手に見える扉が、市道側の入り口です。
4段の階段を上がったところが2階フロアですが、
市道側から入るとここが1階、下は地下室という感じ。
傾斜地に合わせた造りです。

2階の北側が書斎。
建物内で、メインとなる部屋です。
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今は物が散らかっていますが、
白い漆喰塗りの高い天井で、
気品の漂う空間であったことが
察せられます。

浄暁寺の先代ご住職(故人)は仏教史の研究家で、
浄土真宗の開祖である親鸞聖人に関する本など、
いくつもの著作を残した方です。

この部屋が執筆の場だったそうです。
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▲ドアのガラス、細かな装飾など、
手の込んだ造りです。

なおこの2階で南側、建物の薄い部分には
「読書室」とされる小部屋があります。
(下の写真で、緑色の窓が付いている壁の向こう側。)
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3階へ。
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階段は狭くてかなり急傾斜。
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上がったところ、3階は書庫です。
このフロアはもともと、
屋根裏部屋のような空間だったそうで
それをリフォームして今のような
設えにしたのだそう。

2階の書斎と比べると天井は低くて、
180cm足らず、内装も質素です。
多数の蔵書を収蔵するスペースが
必要になったのでしょうか。
ざっと拝見したところでも、
蔵書は仏教関係に限らず多種多様でした。

外から見て、屋根をくり抜いたような窓が作られたのは、
このリフォームによるものなのかも。
工事をいつ行ったのかは聞き忘れましたが、
窓にアルミサッシが使われているから、
昭和40年代、だろうか……。

前々回の記事 では昭和50年代初頭の
建物の外観写真を載せましたが、
そこにはすでにこの3階の窓があります。
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▲そしてこちらが3階の南側、
建物の奥行きが薄い部分。
なるほど、これは薄い。
両手を拡げてみたところ、
両側の壁の間隔は170cmあまりと思われます。

以上、洋館内部をざっと紹介しました。
まとめると地階はおもに物置スペース、
3階は屋根裏部屋改装の書庫。
落ち着いて過ごせる書斎は2階の1部屋だけ、と
ある意味ではぜいたくな造りといえます。

建て主である石橋家の人々が、
どのような意図・目的でこの建物を建てたのか
知るよしもありません。

後年に洋館を含む屋敷を取得した
先代のご住職にとって、この建物が、
執筆活動のための書斎・書庫として
大事な場所であったことは確かです。

石橋家邸宅の母屋(本邸)は
昭和61年に解体されますが、
この別邸洋館があえて残されたのは、
それだけ有用な建物だったということだと
想像します。


★洋館内部は特別な許可をいただいて撮影しました。
 館内の一般公開はされていません。






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by wilderness-otaru | 2017-12-29 16:59 | 小樽散歩 | Comments(2)

「住ノ江の薄い家」についてのまとめ【2】

通称(!?)「住ノ江の薄い家」こと
旧石橋家別邸洋館(以下「洋館」)に関する
調べ書きの続きです。

前回は、建物の成り立ちについて
推測を交えながら書きましたが、
今回は、屋敷の建て主である
石橋家について。


●当主・石橋彦三郎と、〈北の誉〉創業者・野口吉次郎
〈丸ヨ石橋商店〉当主の彦三郎は彦根出身の商人。
大阪の米穀商に奉公し、若くして商才を発揮しました。
明治11年、22歳で小樽に来て呉服・荒物を商い、
のちには海産物卸、鰊漁場経営も手掛けたようですが、
事業の中心は呉服商でした。

明治30年頃になって醤油の醸造という
新しい事業を考えていたところに出会ったのが、
野口吉次郎。出身地の加賀で
醤油や酒の醸造を手掛けるも成功はせず、
働き口を求めて小樽に来たという苦労人です。

石橋のもとで醤油造りを手掛け、製造が軌道に乗ると、
石橋家は国内でも屈指の醤油業者となります。
このほか旭川の雨粉(うぷん)では
〈丸ヨ農場〉を開いて米作を手掛け、
上川地方における水稲栽培の
礎を築いたという功績も伝えられています。

やがて野口は石橋の元から独立。
同じ醤油を造って奉公元と競合するのを避けるため、
酒造りを始めます。
これがうまくいって、生まれたのが〈北の誉〉。
野口吉次郎は北の誉の創業者なのです。
以上はおもに『小樽商工会議所百年史(1996)』を参考にしました。
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▲大正12年発行の市街地図。
住ノ江に浄暁寺と、丸ヨ石橋邸が記されています。
ただし書き込まれた場所は誤りで、実際にはどちらも1本下のブロックに位置します。

住ノ江からほど近い奥沢地区、
勝納川の流域には、ともに丸ヨの印を掲げた
野口と石橋の工場が記されています。
石橋には第一、第二、2つの工場があり、
製造規模が大きかったことを伺わせます。


●石橋彦三郎、石橋商店の晩年は?
醤油醸造で成功した石橋彦三郎ですが、
明治時代の終わり頃には故郷彦根に帰っているようです。
63歳になった大正6年、第12代の彦根町長に就任。
実業界出身の町長は、彦根で初めてだったそう。
また彦根高等商業学校(滋賀大学の前身)
誘致するため、多額の寄付をしたとのことです。

彦根には明治年間に建てられた石橋家住宅の建物群が現在も残り、
国の登録有形文化財となっています。

ということは、彦三郎は北海道で事業を行いながらも、
故郷との繋がりを保っていたということなのだろうか……。

住ノ江の屋敷は大正初期までに
建てられたとみられますが、彦三郎は
そこに住んでいないようです。
土地取得時の名義は、彦三郎の婿養子だったらしい。

近年まで盛業を続けた北の誉に対し、
石橋商店はより早くに事業を終えているようですが、
その来歴を伝える資料は見当たりません。

昭和35年に発行された小樽市港湾部製作の市街地図には、
勝納川沿いに「石橋醤油醸造工場」が記載されています。
ちょうど北の誉の工場(最近まで「酒泉館」があったあたり)の、
川を隔てて向かいのところです。

戦後にも操業していたようですが、
いつまで続いたのかはわかりません。
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▲昭和35年の地図。
この図は海側が上で、前掲の大正12年の図とは
反対向きであることに注意。

1994年に発刊された
『小樽市の歴史的建造物 歴史的建造物の実態調査報告(1992)からは、
小樽の建築に関して信頼度の高い書物ですが、
この本を見ると、かつて「酒泉館」周辺に多数あった
北の誉の製造関係の建物はいずれも、
元は石橋商店醤油工場として明治後期から大正にかけて、
建てられたものであったと記されています。
どの時代に北の誉の工場になったのかはわかりませんが、
両社は長年にわたって緊密な関係を
続けていたのかもしれません。

ともあれ、石橋商店の晩年について、いずれ調べてみたいと思います。

記事が長くなりましたが、
次回はようやく、洋館の中へ……。







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by wilderness-otaru | 2017-12-28 09:44 | 小樽散歩 | Comments(0)

「住ノ江の薄い家」についてのまとめ【1】

「住ノ江の薄い家」について、
前回は 内部の様子にも少し触れましたが、
建物の来歴など、さらに掘り下げてみます。

この建物はもともと石橋家の所有だった
ことまではわかっていましたが、
その別邸となる洋館であることから
「旧石橋家別邸洋館」の名を用いることにします。
以下は単に「洋館」と呼びます。

●航空写真で見ると、建物の位置関係が一目瞭然
浄暁寺をお訪ねした際に、1枚の
貴重な写真を見せていただきました。
昭和50年頃、お寺と、隣接する幼稚園とを写した
航空写真です。
元の写真はカラーですが、
それを下地として説明を加えたのがこちら。
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洋館は、画面左端に写っています。
洋館の後方、赤線で囲った細長い土地が
石橋家邸宅の敷地だった部分です。
画面右上に木々の茂る庭があり、
それに続いて瓦屋根の本邸、そしてそこに
ぴたりとくっつくように洋館が
建っている様子がわかります。

●洋館は本邸の背後に付随した建物だった
この航空写真を見ただけで、
洋館が薄い理由が、かなりわかってきます。
現在では独立して建つ
薄い建物に見える洋館ですが、
もとは本邸背後の狭い土地に建てられた、
付随的な建物だったわけです。

母屋の一角にもけっこうな広さをもつ
中庭があります(ここにも立木が見える)
洋館がこの庭に接する部分は特に、
建物の奥行きが削られています。
これは中庭を広く確保するためだったのかと
想像されます。
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▲現在の園庭から見た洋館。
手前の雪原全体に、屋敷が建っていました。
洋館に向かって右側には
ぴったりと接するように母屋が建ち、
左側、薄い部分に面して中庭がありました。


●建物はいつできたのか?
本邸の建物としては母屋と管理人用住宅(共に二階建て)
それに土蔵、物置があったそうです。
航空写真の瓦屋根からも察せられるように、
和風のお屋敷でした。
浄暁寺の今のご住職によると
「大正初期の建築と伝え聞いている」とのこと。

そこで洋館ですが、こちらの建築年も不明で、
本邸と同時なのか前後して建てられたのかも
定かではありません。

これはあくまで私の感覚なのですが、
どうもこの洋館はもっと後年の建物のように思われます。
アール・デコ風な幾何学的意匠、モルタルを吹き付けて
ザラついた仕上げにする“ドイツ壁”と呼ばれる外壁は、
昭和初期の建物を連想させます。
富岡のカトリック教会(昭和4年)
若松町の旧岡川薬局(昭和5年)
潮見台浄水場(昭和2年)あたりと
似ているような……。
大正時代でも後期か、昭和に入ってから
建てられたものではないかと感じました。
建築にはシロウトですが、小樽の他の建物と
比べての印象です。

●敷地は急な傾斜地。建物は3階建て
園庭から撮った写真を見て、
もうひとつ気付くのは、敷地の傾斜です。
小樽の市街地は大部分が傾斜地ですが、
ここ住ノ江もその例に漏れません。

洋館右側の住宅は、盛り土と石垣によって
平坦地を造っていることがわかりますが、
洋館にはそれがない。
園庭側から建物に入るとそこが1階(「半地下」に近い)
市道側から入ると、階段を4段上がって2階という
建物内に段差がある構造となっています。

すなわち石橋家邸宅の敷地は、
市道側から本邸の側に向かって
すとんと落ち込む(落差2mくらい?)地形です。
それ故、本邸はその部分を避けて建てられ、
空いた細長い傾斜地を利用するべく、
(後年に?)建てられたのが、
この洋館だったのではないでしょうか。

●石橋邸のその後
石橋家がいつまでこの邸宅を
使っていたかは不明ですが、
その後、別な所有者がいたことは
わかっています。

昭和46年に浄暁寺が、市内の商業者から
邸宅全体を購入。
本邸を住職一家の住まいに、
洋館は書庫・書斎として利用します。
昭和61年、寺の施設、浄暁寺学園本部を
新築するため、邸宅部分を解体。
洋館だけは残り、そこに隣接する土地の一部が
幼稚園の庭となって現在に至ります。

この建物の昔の様子を伝える写真は、
残念ながら見当たりません。
唯一、小樽市総合博物館が所蔵する画像のなかに
洋館を写したものがありました。
昭和50〜52年頃、兵庫勝人氏撮影の
一連の市街地スナップのなかの1枚。

建物の姿は、基本的に現在と同じです。
この時点では洋館の背後に
本邸が建っていますが、それを写した写真は
残念ながらありませんでした。
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石橋家や、建物について、
書くことはまだあります。
長くなるので、回を改めることにします。











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by wilderness-otaru | 2017-12-27 10:53 | 小樽散歩 | Comments(0)

住ノ江のカトリック教会

クリスマスには1日遅れですが、
住ノ江のカトリック教会のことを
書いてみます。
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小樽市内には2つのカトリック教会があります。
ここ住ノ江と富岡です。
おととし2015年に組織を
「カトリック小樽教会」と一本化し、
2つの教会を「住ノ江聖堂」「富岡聖堂」と
呼び分けています。

富岡の建物は高い尖塔をもつ
美しい建物で、このブログでも
何度か取り上げています。

こちら住ノ江は、富岡とはまったく
違うタイプですが、
白亜の姿が気品を感じさせる
美しい建築です。

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玄関上の“むくり屋根”が和風、
その手前、八角形を半分に切った形の
部分はいかにも洋風という、
和洋折衷の建築です。

建物の裏手も見ておきたい。
十字架が掲げられる丸い屋根は
鐘楼だろうか……。
手前のアーチ型の屋根の下は、
礼拝堂の祭壇であることが、
あとでわかりました。

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意外にもこの建物、
もともと教会として建てられたのではなく、
当初は個人の邸宅でした。
建築は明治30年頃とされ、
建て主は米穀商「共成」の重役
佐々木静二。
現在「小樽オルゴール堂」店舗として知られる
堺町交差点のレンガ建築は、
この共成の倉庫として
大正初期に建てられたもの。

カトリック教会となったのは
戦後の昭和24年とのことで、
それ以降、屋根に十字架を掲げたり、
鐘楼を加えたりという改装が
行われたようです。

富岡の教会は内部も
一般に公開されているのに対し、
こちらの建物のことは
あまり知られていませんが、
今回は教会の内部を
見学させていただきました。
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▲こちらが礼拝堂。

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▲奥に位置する祭壇の上が、
外から見えたアーチ屋根。
この大きな部屋も、もとは
畳敷きの大広間だったようです。

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▲ここが外から見て八角形の部分。
天井が高く、凝った内装です。
もとは応接室だったようですが、
現在は司祭の執務室として使われています。

司祭とは、フランス人のオール神父さん。
お名前のフルネーム……綴りは?……えーっと……

すみません、書いてください。
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ということで、ご本人直筆です。
在日23年、小樽は4年目とのこと、
とても温和な方です。

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庭には「ルルドのマリア像」。
富岡教会にもありますが、
ここにもあったのですね。










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by wilderness-otaru | 2017-12-26 12:35 | 小樽散歩 | Comments(0)

せたな 太田神社へ

さて姥神大神宮例大祭で賑わう
江差の街をあとにして、
北への帰路を辿ります。
その途中、もうひとつの目的地となるのが
ここ、せたな町の海岸にある太田神社。

海岸付近にそびえる太田山(485m)
山頂近くにある
洞窟の中に設けられた神社です。
そこに至る道のりは急な山道、
洞窟手前には垂直な岩壁を
鎖を頼りに登る箇所もあり、
なかなか手強いらしい。

ちなみに「太田山神社」との呼称もありますが、
地元せたな町では「太田神社」を正式とするらしい。
あれ? だけど現地の鳥居の脇には
「太田山神社」って石柱が
立っている(最後から2番目の写真参照)
ま、いいか……。
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江差から国道229号を北上、
大成で道道740号に入り、
帆越トンネルを出て400mほどの
路肩に見える鳥居がスタートです。

まずは石段を登るのですが、
これが笑っちゃうくらい急!
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段の奥行きは15cmくらいだろうか。
足の2/3くらいしか乗りません。
ロープもありますが、
両脇にしっかりした手摺りがあるので、
これを頼りに登っていきます。

石段を登り切ると、山道の始まり。
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けっこう急ですが、
ほぼ全区間にロープが張ってあるので、
それを手掛かりとして進みます。
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やがて現れるのが「女人堂」。
昔は太田神社は女人禁制で、
女性はここまで、だったらしい。

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さらに登る。
次第に岩がちになってきて、
やがて絶壁の下に到達。
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ブリッジが設けられています。
これがまた、けっこう滑りやすい。
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そしていよいよ、絶壁登りです。
鉄の輪を繋いだ「鎖」が付いているので、
これを頼りに登ります。
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鎖がこういう形状だと、
どうしても手、足ともに
鎖に頼りがちになりますが、
足は鎖より岩場をグリップした方が、
はるかに安定します。
ま、一部は岩場がオーバーハングしていて
足も鎖に入れざるを得ないところがありますが……。

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ゴールとなるお堂。

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大きなものではありませんが、
狭い洞窟内にぴたりと収め、
組木でできた建物が見事。

登山道の険しさばかりが
話題になりますが、
この険しい山中に
これだけの建物を建てた技術と労力は
すごいものだと思います。

さらにいえば最初の急な石段、
登山道に架けられたロープ、
そして最後の岩場の鎖、と
いつ、誰が、どのように造ったのか。
それを支えたエネルギーが
信仰というものなのだろうか。

お堂の傍らには
昭和五十一年六月二十八日の日付と
寄進者、工事請負者、
棟梁、屋根屋の名を記した板が
掲げられていました。

神社の創建は500年以上も前に
さかのぼるそうですが、
建物は比較的新しいようです。
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お堂からはなかなかの絶景。
遠くには奥尻の島影が見えています。
スタート地点からここまでの
所要時間は40分ほどでした。

お堂の標高は約350m。
登り始めは海沿い、
海抜ほぼ0メートルですから
高低差はけっこうありますね。

もと来た道を下ります。
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この高度感はかなりのものです。

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急な石段を降りきって無事帰投。

このあと、数百メートル南にある、
太田神社の拝殿を訪ねました。
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ここから見ると、
登ってきたルートの全容が
よくわかります。

またひとつ、楽しい経験ができました。











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by wilderness-otaru | 2017-08-20 22:06 | 北海道の各地 | Comments(0)

江差の街 軍艦〈開陽丸〉

鴎島の手前の海岸にたたずむ、
古風な姿の帆船。
それが開陽丸です。

鰊漁で栄えた歴史をもつ江差でも、
それとは別に幕末の一時期、
この地に降って沸いた“事件”があった。
それをもたらしたのが、この船でした。
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現在、江差の浜で見られるのは、
この地で座礁し沈没した船を復元したもの。
水に浮いている「船」ではなく、
水中に造られた「建物」ですが、
建造時の設計図をもとに、
正確に再現されています。
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開陽丸は幕末、
必死で西欧に追いつこうとする幕府が
オランダに発注した軍艦です。
建造にはおよそ3年を要し、
その間、日本から派遣した15人の留学生が
現地で学びながら船の完成を待ちます。
留学生のなかでリーダー格であったのが
榎本武揚(当時は「釜次郎」の名を使っていたようですが)

完成した船に乗った榎本らが帰国して間もなく、
将軍・徳川慶喜は政権を返上、
新政府が成立します。
そんななかで榎本は新政府軍の手を逃れ、
開陽丸を含め8隻の艦隊で、
江戸湾から北を目指します。

向かったのは蝦夷地。
そこで独立国をつくることを
榎本は目指していました。

蝦夷地に至って艦隊は分散しますが、
旗艦である開陽丸が向かったのが江差。
しかしこの町の沖合に停泊している間に、
暴風が襲い、船は座礁し、沈没してしまいます。

榎本がオランダで航海術や軍事、
国際法を学んだとはいえ、操船に関しては
まだまだ初心者マークでした。

沈没した開陽丸の、本格的な調査と
遺品の引き揚げが始まったのは昭和50年。
そこで回収された膨大な品々を展示するのが、
この復元された開陽丸です。
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船の艤装に関するものから、
食器など生活用具まで、多種多様。
長年、海水に浸かっていたものを
保存するには、化学的な処理が必要だそうで、
それらのプロセスに関しても、説明されています。
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甲板上は真っ平ら。
榎本もこんな場所で
舵を握ったのだろうか……。

開陽丸については司馬遼太郎さんの
『街道をゆく』シリーズのうち
『北海道の諸道』で詳しく書かれています。
司馬さんが江差を訪れたのは昭和53年、
水中探査の作業が行われていた時期で、
もちろんこの復元開陽は、
まだできていません。

あらためて本を読み返し、
現地では気付かなかったことがいろいろわかり、
またこの大作家の見識の深さにも感じ入りました。

司馬さんも開陽丸が
大海を航海していたのでなく、
江差の港にいながら座礁したことは悔やまれるとし、
地元の老練な漁師から、
海の状況を聞くべきであったと記しています。

なかなか見応えのある展示施設でした。













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by wilderness-otaru | 2017-08-18 00:51 | 北海道の各地 | Comments(0)