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牡丹と芍薬 祝津・青山別邸の庭を見る

祝津は、いつもは海上を漕ぐところですが
この日は陸上から。
自転車だったので、漕ぐには変わりないか……。

青山別邸の牡丹と芍薬が見頃だと聞いて
寄ってみました。
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青山別邸の館内は有料で公開されていますが、
庭だけなら無料で見られます。
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牡丹と芍薬は似ていますが、
はっきりした違いがあります。
「牡丹は木、芍薬は草」と聞けばわかりやすい。

この庭では牡丹はやや盛りを過ぎたところ、
芍薬はまだつぼみで、開花はこれからという感じでした。

青山別邸は鰊漁家の青山家が建てた豪邸で、
贅を尽くしたつくり。
完成は大正12年とあるから、
鰊漁はもう全盛期の終焉が近い時代です。
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屋根にはシャチホコが乗っていますが、
よく見ると違う形もある。
右側は弁財船を象ったものだろうか……。

拡大してみます。
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古い建物に特有の、歪みのある板ガラスも目を引きました。
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この映り込み、芸術的。
こんなガラスを作るところ、もうないだろうな。
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by wilderness-otaru | 2019-06-03 12:48 | 小樽散歩 | Comments(0)

道外遠征 北陸の旅【3】いざ加賀へ。北前船主の村を訪ねる

福井から石川県に入りました。
県境近くを流れる大聖寺側の河口近くにある
塩屋と瀬越(せごえ)は、ともに北前船主の村として
知られたところです。
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▲大聖寺川の河口、塩屋の海岸。
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▲遠くの雪山は白山だろうか。

塩屋の町はいたって静かで、
海岸に釣り人の姿がわずかにあっただけでした。
北前船に関する史蹟や見どころは、何もありません。

1kmあまり上流側、瀬越に行ってみます。
ここでまず訪れたのが「竹の浦館」という施設。
昭和5年に建てられた旧「瀬越小学校」の建物を再生し、
今は地域のコミュニティスペースとして使われています。
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遅咲きの桜がきれいでした。
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角谷家、四方(よも)家など瀬越の北前船主たちが奉納した船絵馬も
いくつか、さりげなく置かれていました。
もとは白山神社に奉納されたものらしい。

川のほとりに建つ大きな屋敷は、大家(おおいえ)家。
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大家家は小樽を拠点としていて、
小樽運河近くには大きな石造りの「大家倉庫」が
今も健在です。

瀬越の大家家は広い敷地を板塀が囲む、重厚な構えです。
しかし敷地内の母屋など主要部分は
昭和50年代の火災で焼失してしまいました。

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外から見るだけでも、風格ある様子がうかがえます。

ところで竹の浦館ではスタッフの方から
「大家さんのお嬢さんが喫茶店をやってますよ」
という話を聞きました。
そこへ行ってみることにします。

Chilly&Toastyという洒落た名前の店は、
お屋敷からほど近い、川沿いにありました。
(略して“チリトー”と呼ぶらしい)
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オープンスペースたっぷりの、とても気持ちいいロケーション。
開店からまだ1年足らずだそう。
しかしつい最近、雑誌で紹介され、連休ということもあって
たいへんな忙しさになってしまったらしい。
お客はほとんどが女性でした。

僕らが行ったときは先客が5〜6人だったけれど、
コーヒーだけ頼んでも30分経ってもまだ来ない。
店主がひとりで、しかもいろいろと手の込んだ
スイーツを作っているので、時間がかかるようです。

普通ならイラっとしそうだけど、
不思議と穏やかでいられるのは、
心地よいロケーションと、
忙しそうなのに朗らかな彼女のおかげか……。

その後、ようやくカウンターに座ることができました。
コーヒーをいただきながら小樽から来たことを話すと、
とても驚き、喜んでくれました。
何と言っても、大家家に縁ある地ですから。

ほんとうはもっといろいろ話したいところでしたが、
客足は絶えないので、あまり長居せずに、
川辺の店をあとにしました。
その後、瀬越の集落の中を散策しました。
Chilly&Toastyのすぐ近くにある白山神社。

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鳥居を寄進したのは廣海家の五世・二三郎。
小樽の住吉神社の鳥居を寄進したのも同じ、
五世・二三郎です。
(廣海家は二代目以降代々、二三郎の名を受け継いでいます)

廣海家の屋敷はこの神社のすぐ前にありましたが、
今は跡形もなく、空き地にソーラーパネルが
びっしりと並んでいました。
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静かな風情ある瀬越の街並みは魅力的でしたが、
先に進むことにします。
次は橋立へ。

それにしても旅先で見聞きしたものはすごく多く、
旅レポがなかなか進みません。
いったいいつまでかかるのやら……。

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by wilderness-otaru | 2019-05-17 15:22 | 北海道外のこと | Comments(0)

新紙幣に採用、渋沢栄一と小樽

紙幣のリニューアルが発表されたのは4月9日。
新聞では夕刊に第一報が載りました。

新1万円札に使われる肖像画は、渋沢栄一。
明治時代後期から昭和初頭にかけて
全国各地にさまざまな事業を興した実業家です。

小樽では運河沿いに「渋澤倉庫」の名を冠した建物が現存します。
旅行ガイドブックなどで小樽運河を紹介する
最も典型的なアングルの写真にも、
この建物はほぼ必ず写ります。

渋沢ゆかりの会社が多数あるなかで
社名に「渋澤」が付く現存の企業は数少ない。
ここでは人気観光スポットのど真ん中に
社名が記されているのだから、これはなかなかレアです。
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新紙幣関連のニュースでは、きっと
この建物が話題になるだろうと思っていましたが、
あれ〜?? 意外にも北海道新聞の記事でもゆかりの企業として
北海道ガス、函館どつく、サッポロビールなどを
紹介しただけで、小樽の渋澤倉庫は完全にスルー。

全道版はともかく、小樽版で渋澤倉庫は外せないでしょ……と思っていたら
本日、11日の朝刊の小樽版にようやく、関連記事が出ました。
運河沿いに倉庫が2棟、北運河に1棟、さらに
渋澤が設立に関わった第一銀行の旧小樽支店と、
市内に計4つ、渋澤ゆかりの建物があるという内容。

実は埠頭にもう1棟、倉庫があるから
計5つなんですけどね……(後述)。
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運河沿いの2棟がこれです。
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倉庫が建つ埋立地は大正12年に竣工し、
倉庫は12〜13年に建てられたものとみられます。
大正15年発行の地図を見ると、この埋立地に
渋澤倉庫の名が記されているので、
埋立て当初から渋澤倉庫が、ここに立地していたことは
間違いなさそうです。

社名とともに記される「印(しるし)」は
和楽器の「鼓」を立てた形に見えることから
「立鼓(りうご)」と呼ばれたもので、さらに
横に帯が入っていることから「オビリウゴ」の
呼び名もあったらしい。
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運河沿いの倉庫2棟はどちらも飲食店として使われていますが、
ここにも「オビリウゴ」の印が記されています。

▼もう1つ、北運河沿いにある渋澤倉庫の建物がこれ。
今日の北海道新聞の記事には
この建物の写真が載っていました。
ただし「渋沢」の文字も、オビリウゴの印もありません。
運河沿いの倉庫の方が、絵になると思うのだけどね……。
なんといっても「渋沢」の文字が入っているし。
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2棟の石蔵の上に大屋根を架けて
ひと続きにした形の建物です。
向かって右がPressCafe、左側がライブハウスGoldStoneとして
使われています。
建物は明治25年頃に落成していて、建て主は
遠藤又兵衛(小樽警察署の並びに屋敷が残っています)

渋澤倉庫が小樽に進出したのは大正4年で、
そのときにこの建物を取得したようです。
遠藤の店は経営不振に陥って、この倉庫を手放したのだとか。

第二号埠頭の基部にも「渋澤倉庫」はあります。
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あまり一般の人が立ち入らない場所だから、
気付かれないのかもしれない。
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大きな建物ですが、埠頭上の他の倉庫と同様、
使われている気配はなく、少々荒れ気味に見えます。
それでもオビリュウゴの印はくっきりと。


もうひとつ、建物として目に見えるものではないけれど、
小樽と渋沢栄一の接点といえるのが、
函館から小樽に至る「北海道鉄道」。
現在の函館本線の一部となる路線です。
明治29年に「函樽鉄道」として会社が設立されますが、
このときに設立発起人となったのが渋沢栄一。

函館〜小樽の路線は、日露戦争に備えた
軍事輸送の目的が加わって短期間に工事が進み
明治37年10月に全線開通します。
明治40年7月には国有化されますが、
買収の条件は会社にとって厳しい内容で、
損失だけが残る不本意なものでした。









by wilderness-otaru | 2019-04-11 14:59 | 小樽散歩 | Comments(0)

日本郵船の館内へ

北海道の観光施設などでは11月上旬の週末をもって
営業を終わるところが多くあります。
あとは4月下旬の連休まで“冬眠”となるので、
旅行関係の雑誌編集では、しまった!撮っておけばよかった!!
ということがけっこうあるのですね。

それとは別ですが、小樽では
重要文化財になっている旧日本郵船小樽支店が、
この11月4日から修復工事のため、長期休館となります。
再開は2022年3月という大掛かりな作業らしい。

何度も訪れているので、特に必要性はないのだけれど、
今後の約3年半は入れないということで、
一応、見納めに行っておきました。
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外観は荘厳・重厚な建築ですが、
内装の細かいところも見ものです。

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あとで気付けば、圧倒的にタテ位置の写真が多かった。
なんで!?
今回はいっそ、全部タテの画像だけを載せました。


それにしても修理工事に3年半近くとは長い。

この郵船では近年にも、2013年9月に「調査工事」が始まり、
当初の予定を1年延長して2015年3月まで休館していました。
今回始まる修理工事は、その調査を受けてのものだそうですが、
調査から着工まで3年以上も経って、
その間にも現況が変わってしまうのではないかと、
余計な心配をしてしまいます。

たまたま、今日の新聞は日本ハムファイターズの
新球場(ボールパーク)建設の計画を伝えていました。
それによれば2020年5月着工、
23年3月開業の予定とのこと。
工事期間は3年足らず。
郵船の修理工事はそれより長いんだな。

役所の仕事ってすごいな〜と、
あらためて感じ入りました。


皮肉かって?
当たり前でしょ(^-^*)








by wilderness-otaru | 2018-11-05 13:26 | 小樽散歩 | Comments(0)

『小樽の鉄道遺産』が北海道遺産に

2018.11.2の北海道新聞朝刊を開いて、
へえ〜っと思ったのは『北海道遺産』に
15の物件が追加されたというニュースでした。
小樽関連では『小樽の鉄道遺産』が入ったとのこと。

私は昨年、北海道新聞社から発刊された書籍、
『「北海道遺産」読本』を執筆させていただきました。

といってもあくまでも本を書いただけで、
北海道遺産の運営などには関わっていないので、
その後の追加認定の動向なども知りませんでした。

これまでにあった小樽の北海道遺産は
『小樽みなとと防波堤』1件です。
確かに小樽港の防波堤は歴史的にも
土木工学の視点からも貴重で、
北海道遺産に選ばれるに相応しいものです。

でも小樽といえば運河とか建築物とか、
より一般にわかりやすい史蹟も多く、
それらが北海道遺産に入ってもいいのではないか、
という気はしていました。
その観点からすると今回の“鉄道”は、
まず順当な選定ではないかと思います。

この『小樽の鉄道遺産』に関連する見どころといえば
市街地を通る旧手宮線の線路跡と、
今は小樽市総合博物館となっている
手宮の鉄道史蹟でしょう。

たまたまですが、この日は
博物館に行く用事がありました。
ちょうどアイアンホース号が出発待ちだったので、
踏切から1カット。
背景、手宮公園の紅葉はまだ見られる感じです。
天気が良かったのでいい色になりました。
アイアンホースの今シーズンの運行は、あとわずか。
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ちなみに今回、北海道遺産に選ばれた15件は
以下のとおりです。

 ・利尻島の漁業遺産群と生活文化
 ・旭川家具
 ・三浦綾子記念文学館と外国樹種見本林
 ・増毛山道と濃昼(ごきびる)山道
 ・北海道の集治監(樺戸、空知、釧路、網走、十勝)
 ・小樽の鉄道遺産
 ・大友亀太郎の事績と大友堀遺構
 ・パシフィック・ミュージック・フェスティバル(PMF)
 ・札幌軟石
 ・蝦夷三官寺(有珠善光寺、様似等澍院、厚岸国泰寺)
 ・しかべ間歇泉
 ・むかわ町穂別の古生物化石群
 ・北海道の簡易軌道
 ・千島桜
 ・松浦武四郎による蝦夷地踏査の足跡

むかわ、武四郎あたりはタイミング的に
“いかにも”という感じですが、
“それがあったか!!”というものも……。

ま、いろいろあって楽しいです。

また本を書きたいなあ……。









by wilderness-otaru | 2018-11-03 13:07 | できごと | Comments(0)

道南の旅【3】“古都”松前

函館から松前町にやってきました。
江戸時代には蝦夷ヶ島に
ただひとつ置かれた“藩”である
松前藩の城下町だったところ。
そうした歴史をもつだけに
“古都”の風情が漂う、
北海道では希有な場所でもあります。

何と言ってもお城がある。
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松前城です。またの名を福山城といい、
町でいちばんの見どころとなっています。
もっとも城は藩の拠点ではなく、
幕末になって外国からの脅威に備え、
幕府の命によって建てられたものです。
落成は安政元(1854)年。

大砲や銃器が主力の時代、
さあ狙ってくれといわんばかりに
戦国時代さながらの天守を建ててしまうあたり、
時代錯誤も甚だしい。
古典的な「城」の発想から抜けられなかった、
ということなんだろう。

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実用的な機能はさておいても、
シャチホコの載った白亜の天守は美しい。
もちろん北海道内では唯一のものです。

ただし城は昭和24年に火災で焼失し、
現在あるのは35年に再建されたコンクリート建築です。
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城は戊辰戦争の戦場にもなりました。
土方歳三率いる旧幕府軍が攻撃し、
短時間のうちに城を奪取します。
そのときの砲撃の跡が石垣に残っています。

城の背後、山側には“寺町”があります。
現在残る寺は松前藩の菩提寺である
「法幢寺」を含む5つ。
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暑い日だったけれど、蝉時雨がひびき
さわやかでした。
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松前藩の墓所。
藩主や側室の墓が並んでいます。
傍らには竹林もあったし、
どこを見ても“北海道らしくない”風情がたっぷりです。

ところで歴史上、松前藩といえば
アイヌからの搾取によって
藩の経営を成り立たせていたことが
語られます。

司馬遼太郎の大作『菜の花の沖』では
高田屋嘉兵衛が初めて蝦夷島に渡るくだりで、
松前藩をめぐる状況が詳しく描かれます。

あらためてその部分を読み返しました。
少し長いが引用すると……

「松前」という藩は、歴史の上でどれほどの名誉を背負っているのだろうか。
巨細にみても、広大な採集の宝庫の一角を占めた悪組織というというほかなかった。
この藩は、みずからの藩や藩人個々の利益になること以外に、どういう思想ももっていなかったように思える。
「場所請負制」という利益吸いあげの装置の上に、藩も藩人も寝そべっていた。

……との記述は実に痛快です。

松前藩はこうした藩経営の実情が
外部に知られることを極端に嫌い、
入国者にも厳しい取り調べを課しました。
小説では高田屋嘉兵衛が、沖の口の役所で
理不尽な取り調べに合う様子も仔細に描かれています。

このほか司馬さんの著作では、
『街道をゆく』シリーズの15巻、
『北海道の諸道』でも江差や松前が取り上げられていて、
旅での見聞に重ねると、おもしろく読めました。
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松前の前浜。
嘉兵衛の操る北前船「辰悦丸」も
このあたりに停まったのだろうか、と想像がふくらみました。
防波堤のように見えるのは、明治に入って造られた波止場で、
解体された松前城の石垣が利用されているのだそう。
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興味深い見どころがぎっしりの、松前でした。








by wilderness-otaru | 2018-08-28 01:01 | 北海道の各地 | Comments(0)

道南の旅【1】函館山、砲台跡を見る

8月10日、江差・姥神大神宮の例大祭を見たあと
道南地方でいくつか、訪ねたい場所がありました。
その筆頭が函館山。
山頂から見る夜景が何といっても有名で、
それを見に行ったこともありますが、
今回の目的は「史跡」です。

津軽海峡を睥睨する函館山の山頂部には
戦時中、軍事要塞が築かれ、
その遺構を今も見ることができます。

要塞の建造は明治後期、日露戦争の時代に始まり、
第二次世界大戦まで使われました。
そのため函館山の存在自体が軍事機密として、
立ち入りはもちろん、写真やスケッチも
厳禁されていたのだそう。

事前に下調べしたところ、
山頂部には広範囲にわたって要塞跡が点在し、
それらを巡る山道も、
いくつかあることがわかりました。
そのなかで選んだのは千畳敷コースです。

スタートは立待岬。
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津軽海峡に向かって突き出た岬は
景勝地としてポピュラーで、
多くの観光客で賑わっていました。
ここから車道を少し戻ったところが
登山道の始まりです。
「七曲り」と呼ばれるつづら折りの道を、
登ること約1時間。
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おなじみの、函館山の景観です。
ちょっとガスってました。
左端、テレビアンテナが建つあたりが
ロープウェイ駅のある山頂展望台。

千畳敷の広場に出て、さらにそこから
ひと登りすると要塞跡に到着します。
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ここにあったのは山頂部一帯にある、
さまざまな施設の核となる「司令所」だったそう。
いろいろな形をした建築物のそれぞれが、
どのような目的だったのか正確にはわからないけれど、
当時の優秀な頭脳の持ち主が、設計したのだろう。
山の上にレンガをはじめ多量の資材を運ぶ
築造工事も過酷だったことは、容易に想像できます。

この砲台は外国軍艦に対する“抑止力”はあっても、
実際にここから砲撃が行われたことはなかったらしい。
戦争の虚しさ、愚かさといったものを感じます。











by wilderness-otaru | 2018-08-24 01:17 | 北海道の各地 | Comments(0)

「住ノ江の薄い家」についてのまとめ【3】

住ノ江・旧石橋家別邸洋館に関し、
前回までかなり長い記事を書いてきましたが、
今度は洋館内部の様子を、
写真とともに記します。

洋館への出入りは、建物裏手(海側)の園庭側から。
山側、市道に面した入り口は現在、
使われていません。

なお内部は現在、物置のようで、
けっこう散らかっています。
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▲2階へ上がる階段。

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▲右手に見える扉が、市道側の入り口です。
4段の階段を上がったところが2階フロアですが、
市道側から入るとここが1階、下は地下室という感じ。
傾斜地に合わせた造りです。

2階の北側が書斎。
建物内で、メインとなる部屋です。
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今は物が散らかっていますが、
白い漆喰塗りの高い天井で、
気品の漂う空間であったことが
察せられます。

浄暁寺の先代ご住職(故人)は仏教史の研究家で、
浄土真宗の開祖である親鸞聖人に関する本など、
いくつもの著作を残した方です。

この部屋が執筆の場だったそうです。
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▲ドアのガラス、細かな装飾など、
手の込んだ造りです。

なおこの2階で南側、建物の薄い部分には
「読書室」とされる小部屋があります。
(下の写真で、緑色の窓が付いている壁の向こう側。)
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3階へ。
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階段は狭くてかなり急傾斜。
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上がったところ、3階は書庫です。
このフロアはもともと、
屋根裏部屋のような空間だったそうで
それをリフォームして今のような
設えにしたのだそう。

2階の書斎と比べると天井は低くて、
180cm足らず、内装も質素です。
多数の蔵書を収蔵するスペースが
必要になったのでしょうか。
ざっと拝見したところでも、
蔵書は仏教関係に限らず多種多様でした。

外から見て、屋根をくり抜いたような窓が作られたのは、
このリフォームによるものなのかも。
工事をいつ行ったのかは聞き忘れましたが、
窓にアルミサッシが使われているから、
昭和40年代、だろうか……。

前々回の記事 では昭和50年代初頭の
建物の外観写真を載せましたが、
そこにはすでにこの3階の窓があります。
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▲そしてこちらが3階の南側、
建物の奥行きが薄い部分。
なるほど、これは薄い。
両手を拡げてみたところ、
両側の壁の間隔は170cmあまりと思われます。

以上、洋館内部をざっと紹介しました。
まとめると地階はおもに物置スペース、
3階は屋根裏部屋改装の書庫。
落ち着いて過ごせる書斎は2階の1部屋だけ、と
ある意味ではぜいたくな造りといえます。

建て主である石橋家の人々が、
どのような意図・目的でこの建物を建てたのか
知るよしもありません。

後年に洋館を含む屋敷を取得した
先代のご住職にとって、この建物が、
執筆活動のための書斎・書庫として
大事な場所であったことは確かです。

石橋家邸宅の母屋(本邸)は
昭和61年に解体されますが、
この別邸洋館があえて残されたのは、
それだけ有用な建物だったということだと
想像します。


★洋館内部は特別な許可をいただいて撮影しました。
 館内の一般公開はされていません。






by wilderness-otaru | 2017-12-29 16:59 | 小樽散歩 | Comments(2)

「住ノ江の薄い家」についてのまとめ【2】

通称(!?)「住ノ江の薄い家」こと
旧石橋家別邸洋館(以下「洋館」)に関する
調べ書きの続きです。

前回は、建物の成り立ちについて
推測を交えながら書きましたが、
今回は、屋敷の建て主である
石橋家について。


●当主・石橋彦三郎と、〈北の誉〉創業者・野口吉次郎
〈丸ヨ石橋商店〉当主の彦三郎は彦根出身の商人。
大阪の米穀商に奉公し、若くして商才を発揮しました。
明治11年、22歳で小樽に来て呉服・荒物を商い、
のちには海産物卸、鰊漁場経営も手掛けたようですが、
事業の中心は呉服商でした。

明治30年頃になって醤油の醸造という
新しい事業を考えていたところに出会ったのが、
野口吉次郎。出身地の加賀で
醤油や酒の醸造を手掛けるも成功はせず、
働き口を求めて小樽に来たという苦労人です。

石橋のもとで醤油造りを手掛け、製造が軌道に乗ると、
石橋家は国内でも屈指の醤油業者となります。
このほか旭川の雨粉(うぷん)では
〈丸ヨ農場〉を開いて米作を手掛け、
上川地方における水稲栽培の
礎を築いたという功績も伝えられています。

やがて野口は石橋の元から独立。
同じ醤油を造って奉公元と競合するのを避けるため、
酒造りを始めます。
これがうまくいって、生まれたのが〈北の誉〉。
野口吉次郎は北の誉の創業者なのです。
以上はおもに『小樽商工会議所百年史(1996)』を参考にしました。
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▲大正12年発行の市街地図。
住ノ江に浄暁寺と、丸ヨ石橋邸が記されています。
ただし書き込まれた場所は誤りで、実際にはどちらも1本下のブロックに位置します。

住ノ江からほど近い奥沢地区、
勝納川の流域には、ともに丸ヨの印を掲げた
野口と石橋の工場が記されています。
石橋には第一、第二、2つの工場があり、
製造規模が大きかったことを伺わせます。


●石橋彦三郎、石橋商店の晩年は?
醤油醸造で成功した石橋彦三郎ですが、
明治時代の終わり頃には故郷彦根に帰っているようです。
63歳になった大正6年、第12代の彦根町長に就任。
実業界出身の町長は、彦根で初めてだったそう。
また彦根高等商業学校(滋賀大学の前身)
誘致するため、多額の寄付をしたとのことです。

彦根には明治年間に建てられた石橋家住宅の建物群が現在も残り、
国の登録有形文化財となっています。

ということは、彦三郎は北海道で事業を行いながらも、
故郷との繋がりを保っていたということなのだろうか……。

住ノ江の屋敷は大正初期までに
建てられたとみられますが、彦三郎は
そこに住んでいないようです。
土地取得時の名義は、彦三郎の婿養子だったらしい。

近年まで盛業を続けた北の誉に対し、
石橋商店はより早くに事業を終えているようですが、
その来歴を伝える資料は見当たりません。

昭和35年に発行された小樽市港湾部製作の市街地図には、
勝納川沿いに「石橋醤油醸造工場」が記載されています。
ちょうど北の誉の工場(最近まで「酒泉館」があったあたり)の、
川を隔てて向かいのところです。

戦後にも操業していたようですが、
いつまで続いたのかはわかりません。
d0174510_09334459.jpg
▲昭和35年の地図。
この図は海側が上で、前掲の大正12年の図とは
反対向きであることに注意。

1994年に発刊された
『小樽市の歴史的建造物 歴史的建造物の実態調査報告(1992)からは、
小樽の建築に関して信頼度の高い書物ですが、
この本を見ると、かつて「酒泉館」周辺に多数あった
北の誉の製造関係の建物はいずれも、
元は石橋商店醤油工場として明治後期から大正にかけて、
建てられたものであったと記されています。
どの時代に北の誉の工場になったのかはわかりませんが、
両社は長年にわたって緊密な関係を
続けていたのかもしれません。

ともあれ、石橋商店の晩年について、いずれ調べてみたいと思います。

記事が長くなりましたが、
次回はようやく、洋館の中へ……。







by wilderness-otaru | 2017-12-28 09:44 | 小樽散歩 | Comments(0)

「住ノ江の薄い家」についてのまとめ【1】

「住ノ江の薄い家」について、
前回は 内部の様子にも少し触れましたが、
建物の来歴など、さらに掘り下げてみます。

この建物はもともと石橋家の所有だった
ことまではわかっていましたが、
その別邸となる洋館であることから
「旧石橋家別邸洋館」の名を用いることにします。
以下は単に「洋館」と呼びます。

●航空写真で見ると、建物の位置関係が一目瞭然
浄暁寺をお訪ねした際に、1枚の
貴重な写真を見せていただきました。
昭和50年頃、お寺と、隣接する幼稚園とを写した
航空写真です。
元の写真はカラーですが、
それを下地として説明を加えたのがこちら。
d0174510_09573018.jpg
洋館は、画面左端に写っています。
洋館の後方、赤線で囲った細長い土地が
石橋家邸宅の敷地だった部分です。
画面右上に木々の茂る庭があり、
それに続いて瓦屋根の本邸、そしてそこに
ぴたりとくっつくように洋館が
建っている様子がわかります。

●洋館は本邸の背後に付随した建物だった
この航空写真を見ただけで、
洋館が薄い理由が、かなりわかってきます。
現在では独立して建つ
薄い建物に見える洋館ですが、
もとは本邸背後の狭い土地に建てられた、
付随的な建物だったわけです。

母屋の一角にもけっこうな広さをもつ
中庭があります(ここにも立木が見える)
洋館がこの庭に接する部分は特に、
建物の奥行きが削られています。
これは中庭を広く確保するためだったのかと
想像されます。
d0174510_10004713.jpg
▲現在の園庭から見た洋館。
手前の雪原全体に、屋敷が建っていました。
洋館に向かって右側には
ぴったりと接するように母屋が建ち、
左側、薄い部分に面して中庭がありました。


●建物はいつできたのか?
本邸の建物としては母屋と管理人用住宅(共に二階建て)
それに土蔵、物置があったそうです。
航空写真の瓦屋根からも察せられるように、
和風のお屋敷でした。
浄暁寺の今のご住職によると
「大正初期の建築と伝え聞いている」とのこと。

そこで洋館ですが、こちらの建築年も不明で、
本邸と同時なのか前後して建てられたのかも
定かではありません。

これはあくまで私の感覚なのですが、
どうもこの洋館はもっと後年の建物のように思われます。
アール・デコ風な幾何学的意匠、モルタルを吹き付けて
ザラついた仕上げにする“ドイツ壁”と呼ばれる外壁は、
昭和初期の建物を連想させます。
富岡のカトリック教会(昭和4年)
若松町の旧岡川薬局(昭和5年)
潮見台浄水場(昭和2年)あたりと
似ているような……。
大正時代でも後期か、昭和に入ってから
建てられたものではないかと感じました。
建築にはシロウトですが、小樽の他の建物と
比べての印象です。

●敷地は急な傾斜地。建物は3階建て
園庭から撮った写真を見て、
もうひとつ気付くのは、敷地の傾斜です。
小樽の市街地は大部分が傾斜地ですが、
ここ住ノ江もその例に漏れません。

洋館右側の住宅は、盛り土と石垣によって
平坦地を造っていることがわかりますが、
洋館にはそれがない。
園庭側から建物に入るとそこが1階(「半地下」に近い)
市道側から入ると、階段を4段上がって2階という
建物内に段差がある構造となっています。

すなわち石橋家邸宅の敷地は、
市道側から本邸の側に向かって
すとんと落ち込む(落差2mくらい?)地形です。
それ故、本邸はその部分を避けて建てられ、
空いた細長い傾斜地を利用するべく、
(後年に?)建てられたのが、
この洋館だったのではないでしょうか。

●石橋邸のその後
石橋家がいつまでこの邸宅を
使っていたかは不明ですが、
その後、別な所有者がいたことは
わかっています。

昭和46年に浄暁寺が、市内の商業者から
邸宅全体を購入。
本邸を住職一家の住まいに、
洋館は書庫・書斎として利用します。
昭和61年、寺の施設、浄暁寺学園本部を
新築するため、邸宅部分を解体。
洋館だけは残り、そこに隣接する土地の一部が
幼稚園の庭となって現在に至ります。

この建物の昔の様子を伝える写真は、
残念ながら見当たりません。
唯一、小樽市総合博物館が所蔵する画像のなかに
洋館を写したものがありました。
昭和50〜52年頃、兵庫勝人氏撮影の
一連の市街地スナップのなかの1枚。

建物の姿は、基本的に現在と同じです。
この時点では洋館の背後に
本邸が建っていますが、それを写した写真は
残念ながらありませんでした。
d0174510_10440682.jpg
石橋家や、建物について、
書くことはまだあります。
長くなるので、回を改めることにします。











by wilderness-otaru | 2017-12-27 10:53 | 小樽散歩 | Comments(0)